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turning point20年前に未婚のシングルマザーを決断
――これまで仕事で大変だったことはありましたか?
いっぱいあります(笑)。それこそ入社当時はテレビ業界全体が超ブラックだったのでパワハラやセクハラも普通にありましたし、寝れない・帰れない・お風呂入れないということもよくありました。でも仕事が楽しかったのと、性格的に嫌なことはすぐ忘れてしまうんですよね。
――じゃあ、仕事に向いていないとかで悩むこともなく。
それで言うと、フリーになって東京に出てきたときに、向いていないと感じたことはありますね。大阪ではたくさん仕事をさせてもらったんですけど、きちんと教えてもらったことがなかったので、いざ映像を作ってみるとコテンパンにやられたんですよ。自分ではこれが正解だと思って作品を作っていたのですが、「全然だめだ」と言われて泣きながらやっていました。
映像の演出家って本当にこだわりを持って突き詰めてやっている人が多く、自分にはそこまでのこだわりが持てなかったんです。ディレクターには向いていないと思ったのが、27歳くらいのときですね。ちょうどそのすぐあとに出産があって、アッシュに戻ったという流れです。

子どもの頃から企画を考えるのが好きだったという塩野さん。学生時代からレクリエーション係で演出や企画を担当していたそう。アメリカに住んでいる叔父の影響もあり、海外への憧れも。
――転機になった出来事をひとつ挙げるとしたら、どんなことでしょうか?
やっぱり娘の出産ですね。23歳から過酷な環境で働いていて、でも普通の20代の一般女性ってキラキラしてコンパに行ったりしていて、人生を謳歌しているように見えたんです。友達の中には結婚していく子たちもいましたし。確かに仕事は楽しいけれど、これがずっと続くのだろうか、何のために仕事をしているのだろうかと考えるタイミングで娘を授かりました。
男の人の場合はこんな車に乗りたいとか、可愛い女性とデートに行きたいとか、そういうマグマのような原動力が仕事のモチベーションになると思うんですけど、私にはそういうのがなかった。だから娘が産まれてからは娘が自分の全てというか、働くエネルギーの源になりました。娘にちゃんとやりたいことをやらせてあげられる親でありたいなと思ったときに、仕事を頑張らなくちゃって。
――塩野さんはシングルマザー。ひとりで子どもを産み育てることに不安はなかったですか?
絶対幸せになるという気持ちと、絶対に娘を幸せにするという気持ちのほうが強かったので、不安は捨てていましたね。23歳のときに甲状腺の手術をしていて、病院の先生からは妊娠しにくいというふうにも言われていたので、授かって嬉しい、ありがたいという気持ちが勝って、ひとりでも産み育てようという気持ちは最初から決まっていました。