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turning point28歳で突然無職に…事業計画もないまま起業
――では芸能をやめて起業しようと思った経緯を教えてください。
よくある女子の転機だと思うのですが、30歳手前で婚約者ができて、芸能を引退しようと決意したんですね。「王様のブランチ」もそのときに卒業しました。ただその婚約の話が突然なくなってしまって、肩書もない、就職したこともない、キャリアもない、パソコンも使えない、ただの無職の28歳になってしまったんです。じゃあどうしようかと考えたときに、大学時代の知人たちの中に独立をする人が現れ始めた時期だったので、その波に飛び込んでみたというのが起業のきっかけです。
だからもともと「起業しよう」なんて全く思っていなくて、事業計画すらも全然決まっていなかったんです。とりあえず定款にはPRや美容など、芸能の経験で培ったものの中からできそうなことを書いて、箱だけ作ったというのが私のリアルな起業エピソード。会社を作れば何かしらビジネスが始まるという謎の自信があったのと、失うものがなかったので何も怖いものがなかったことが後押しになりました。
――起業をしたあとは、どのように事業を作っていったのでしょう?
最初は「仕事があったらください」とか、「こういうことが得意だからやらせてほしい」というようなことをとにかく人に言っていました。その時に出会った3人組がいて、彼女たちはブラジリアンワックスサロンで働いていたのですが、オーナーチェンジで路頭に迷っていたところだったんですね。そこで、私がお店を引き継ぐことになりました。就職したこともなければ人を雇ったこともないのに、いきなり組織のある状態からサロン経営を始めたというのが最初の事業です。実戦で走りながらいろんなことを覚えていきました。

「幸いなことにPRや発信は自分の強みなので、集客はうまくいっていました。ただマネジメントをしたことがなかったので、スタッフたちとはたくさんぶつかりました。自分の視座とスタッフのモチベーションをいかに合わせていくかは一生の課題ですね」
――その後HBLの事業ができるまでは?
ブラジリアンワックスのサロンをやってみて、サロンビジネスに面白みを感じ、エステやまつ毛サロンなど15店舗ほどを展開しました。経営も順調で余裕ができたので、面白い施術があったら自分のサロンに取り入れようと思い、世界中の美容を受けに行くようになったんです。そこで当時、海外でブロウラミネーションという眉毛のパーマが流行り始めていたのを見つけ、液材を買って帰り、サロンのスタッフにやってみてもらったんですね。それが想像以上に良くて。スタッフといろいろ試しながら技術を開発して、自分のサロンのメニューのひとつとして始めました。するとそれがものすごく流行っちゃったんです。インフルエンサーの子たちもすごく反応してくれて、一気に広がりました。当時は国内で誰もやっていない技術だったので、同業者がサロンに視察に来るようにもなり、ずっと動画や写真を撮っている人もいれば、「教えてください」と言ってくれる人もいて。ならばこの技術を自分たちだけで囲うんじゃなくて、ちゃんと世の中に講習しようと考えました。
アメリカではすでにブロウアーティストという仕事がすごく流行っていて、メイクアップアーティストのように権威ある仕事として認められています。実際に現地で眉毛サロンに行ったときにブロウアーティストに話を聞いたら、「私はただの美容の仕事をしているんじゃなくて、人の表情を作れるから人生をつくっている仕事をしている」とすごく誇りを持って取り組んでいて、感動したんですよね。特に英語は手ぶりや眉毛を動かして伝える文化だから、人の表情やアイデンティティーを表現する眉毛はすごく大事なんです。でも日本ではアイリストやワクサーがメニューのひとつとして取り組んでいるくらいで、まだこの仕事は日本になかった。この仕事を日本でも職業として確立させようと思い、JULIA IVYを新しく興しました。